なんで写真屋をやっているか考えた

取材で風景写真を撮っている。
 
でもそれは風景写真というよりは…
ちがうものを撮っている気がしている。
  
地球上の自然環境の多くは、人間が変えていける時代になっている。だから自然環境を守ろうとか言えるわけだし、シー・シェパードなんてのが存在する。
 
だけど、ほとんどの人は自然環境が人間の力でコントロールできるとは思っていない。それは、人間が一つの方向で自然環境を守ろうとすることは不可能だと、無意識に感じているからだと思う。
 
人間は、生きるための力はとうの昔に手にいれていて、今どれだけ快適に過ごすかの時代に突入している。それは買い物の際に並ばないことであったり、電車を待たないことであったり、バリアフリーであったり、会いたい人だけと会うことで過ごせる環境であったり。
 
文明の高度化と便利さは、ある程度までは快適なものだと思う。ただしサービスを受けるための対価は発生する。つまり快適に過ごすためにはお金がなければならない。
 
現在の思考において世界一周の影響は大きい。
 
バックパッカーで。アメリカも中米も南米も、ヨーロッパも、中東も、東南アジアも、中国も回った。
不思議なことに人が幸せそうな顔をしているのは、なぜか発展途上国と言われる場所に多かった。
便利で快適な暮らしをしているはずの先進国の人が必ずしも幸せには見えていなかった。
  
快適さは、人が考えて創り出したもの。
創り出された快適がDNAにも心地よいものかどうかは微妙な気がする。
 
サンテグジュベリが、星の王子様で主人公に言わせた台詞、「本当に大切ことは目に見えない。」
旅の中で思っていた。「本当に豊かなことは目に見えない。」
 
現代において現実として、世界のどこに行っても車は走っている。砂漠でも、ジャングルでも。
市場に行けば服は山積みで、食べ物も豊富だった。
 
発展途上国は、確かに10分おきに電車は来ないし、時々停電もする。しかし私たちよりも自然に近いところにいるのは間違いない。表情が豊かなのはそのせいだと思う。
 
二つの経済圏のギャップは、人間が生物として、自然に生きることを失うのがどれほど醜いか…もしくはどれほどつまらないかを意識させる。
 
そして、それは特に極地において大きくエネルギーを感じるものでもある。
 
手つかずの大自然は、必要なものが何かを伝えてくる。
地球の美しさは守るべきものを意識させる力がある。
その不思議な感覚を、南極のその神が作り出したような造形を訪れた時に体感していた。
 
たぶん、旅は全ての生き物にとって、本質的な力への巡礼地なのかもしれない。