ロシアで写真家としての姿勢を考えた

そこに起こっていることを誰かに伝える触媒であればいい。
そこにカメラマンの個性を主張する必要もなく、
意図的に作為を強調することもない。
 
感動したものを、感動したように撮り、感動したとうりに見せられればよい。
 
中途半端な個性は、あざといだけでしかない。
 
作為を作為として見えないところまで昇華させる事が、広告の一つの最高の形だと思うが、
それであっても、受けたものをそのまま伝える事に勝ることは少ない。